2002 コンフォルト 2002年6月号 No.54

山本 基 塩のインスタレーション -空虚がみっしりと詰まった、光の闇。-


---------------------------------------------------------
---
 山本基の塩のインスタレーションは、二度と同じモノができることはない。
 それでも着実と回を重ねてゆくその、モノをつくりあげる直向な姿勢は、
 アーティストとしてというよりは、ひとりの人間として、
 生み出す喜びと壊されてゆく悲しみに向かい合っているように思える。
---------------------------------------------------------
---


 美術家、山本基さんの作品は、塩でできている。ほかの素材を使うことはあるが、多くの作品が、塩を大量に使った、塩だらけのインスタレーションだ。
 例えばある作品は、展示空間に塩をみっしりと詰め、塩の洞窟に入る通路を設けている。だが、通路が狭すぎて入っていくことができない。ある作品は、塩を雪のように敷き詰め、その先に塩の階段を設ける。ところが階段の先には何もない。ある作品は、砂曼陀羅のように緻密な塩の迷路を床に描く。迷路を丹念に辿ればどこかへ行けそうだが、どこへも行けないかもしれない。

 塩は、私たちが生きていくうえで、欠かせない。「地球上に今、70億人ぐらいいて、絵の具を持ったことない人は何十億もいると思うけど、塩をさわったことがない人は、幼児を除けばたぶんひとりもいないでしょう」と山本さんが言うように、塩は生活に密着した素材だ。それに、私たち自身の体液や骨にも塩が含まれている。つまり、塩は私たちの体の素材でもある。
 だから、現代美術の作品という、取っつきにくい類のものでありながら、山本さんの作品は、身近で妙にリアルな印象を与える。なにせ、なめるとしょっぱい。

 塩の魅力は色にある、と山本さんは言う。塩の色は白に決まっているが、食塩を手にとってよーく見ると(ルーペを使うとわかりやすい)、白ではなく、透明な立方体の結晶だということがわかる。無色透明だが、光が乱反射して、白く見えるのだ。
 塩の洞窟や塩の階段は、塩ブロックを組み上げて作る。この塩ブロックは、水に溶かした塩を電子レンジで熱して作るのだが、そうすると、結晶の形が変わって反射が抑えられ、少し透明度が増す。その色がとてもいいという。「サランラップを100枚重ねると白くなるような感じです。すごく白いけどすごく透明で、ちょっとこう、吸い込まれるような、そういう感じの白さが気に入ったんです」と、山本さんは静かに言う。

 塩を使った作品は、キラキラと乱反射しまくって、真っ白に見えるほど明るいというのに、明るいからこそ、透明だからこそ、何も見えない。塩は、天国を連想させるような、透明な闇、光の闇を作り出す。

 日本人は、シロを神の色と考え、シオをさまざまな儀式で愛用してきた。葬式から帰ったときや嫌な客が帰ったあと、清めるために玄関に塩を撒くし、門口や神前などに塩を盛ったりもする。力士は土俵に塩を撒く。
 山本さんの塩の作品も、そういう儀式空間に近い。「塩を使うようになったきっかけは、妹が悪性脳腫瘍で死んだことです。妹にもう一度会いたくてももう会えないということを、日本の死の儀式で使われる塩で表現してみたんです。作品を作り始めてから取り壊すまでの間、ひとりで法事とかお盆のようなことをやっている感じなんですよ」と、淡々とした口調で山本さんは語る。

 儀式空間は初め、決して「儀式的」でウソくさいものではなく、血の通ったリアルなものだったはずだ。葬儀空間は今よりももっと創造的で熱い場だっただろう。山本さんのインスタレーションは、そういう、葬儀の生成の現場を見せてくれている。

 そんな作品群を見ていると、とても濃密な空しさを感じる。なんだか空しくなってくるというのではなく、非常に手応えのある、しっかりとした空しさを感じるのだ。
 この充実した空虚感は、龍安寺石庭のような枯山水の庭を前にして感じるものと似ているかもしれない。塩の迷路などは、見た目も枯山水の砂紋を思わせるが、ある意味では、枯山水よりももっと突き詰められている。

 山本さんの塩の作品群は、人の死というものを形にする試みと見てもいいだろう。形がなかったものに形が与えられると、つき合えなかったものとつき合えるようになる。仏像を安置することで仏様とつき合えるようになるのと同じで、死に形が与えられると、死と向き合うことができる。
 とはいえ、寺などの庭ではなく塩のインスタレーションだから、与えられた形は、ほんの一時的なものでしかない。死の形は固定されず、移りゆく。死にも死が訪れる。生がとどまることができないように、死もとどまることができないのだ。

 無色透明の、空虚な、しかし身近でリアルな素材である塩を使い、どこかに行けそうで行けないという空しい造形を一時的に存在させる。会期が終わると消え去るその空虚な造形は、会期中でも、来場者に踏まれてしまったり、水に溶けたりして形を変えていく。野外展示は、雨に流されて消えてしまう。
 だが、山本さんは、膨大な時間をかけて、丹念に、展示空間の中に、空虚をみっしりと詰めこんでいく。そうすることで、無常の緊張感、無上の緊張感を見事に生み出す。

 そのうち滅びてしまうからテキトーに作るのではなく、そのうち滅びてしまうからこそ、手間暇かけて悔いのない形を与える。こういう緊張感が、アートの枠を超えて、街にどんどん氾濫してくれることを願う。
 たるんだ造形に塩を撒け! 街の風景が、部屋の風景が、もっと緊張することを願う。

文 中野 純(さるすべり)