2002 小澤慶介 "麹町画廊 カタログ"
外なる地平へ

 チベットの砂曼荼羅のような印象を与える円環状の塩の迷路が、ギャラリーの床いっぱいに描かれている。あるいは、奥にある塩の堆積から、手前にかけて、次第に塩の迷路がはっきりとした輪郭を伴って現れ出てくる。よく見ると、これらのインスタレーションでは、一応は完成とされているものの、迷路が閉じておらず、まだ作業の途中であることが窺われる。それは、それが時には際限なく拡張し、はみ出すこともあろうし、また時には収縮し、まったくなくなってしまうという可能性を孕んでいるかのようだ。
このような山本基のインスタレーションは、それを経験する人に身体のレベルでの反応を喚起し、それをギャラリーとは外なる空間の層へと誘う。

 その理由の一つとして、インスタレーションの空間的なスケールがあるのではないだろうか。山本の作品の多くは、与えられたスペースに対して大きく構成される。そういった志向性には、彼の造船所時代の体験が色濃く反映されていると思われる。その瀬戸内にある造船所では、タンカーなど、国際海運に用いられる大型の船を作っていた。その時に染み付いた、人の身体よりもはるかに大きな空間を扱うことから、都市部の日々の経験で得られる空間の感覚とは少しずれたものを現出させているように見える。山本のインスタレーションに入ると、ギャラリーという都市の経験をしながらも、時としてそれとは異なる、作品が開示する空間に立たされていることに気付く。

 また、二つめには、インスタレーションに用いる塩の量がある。山本は、制作のテーマとして「生」や「死」という事柄に取り組んでおり、生命維持に不可欠なもの、あるいは死の儀式に用いられるものとして、よく塩という素材を用いるが、時にはそれが何トンという量 になることもある。ふだん塩の量というと、おそらく料理、食卓、食品などの文脈で語られる、「数グラム」、「少々」など、いわゆる社会生活で一般 に広く行き渡っている言説にみられる程度だろう。それに比べると、山本の作品に使われている塩の量 は、圧倒的に多く、その重量感、あるいはそれによって表象されたものを語るには、参照されうる目印や規定がほとんどない。その様子は、塩を社会の文脈から切り離し、しかしそれでも在るものとして提示しているようだ。山本のこうした塩の使い方は、見る者の、社会に馴らされてしまっている認識方法や身体感覚に訴えるものではないだろうか。

 こうしてみると、山本基のインスタレーションは、社会という枠組みに形成される身体の感覚を少し揺るがす経験を提供すると同時に、その身体を、一時、それとは異なるコミュニケーションの層に引き込む可能性を持っているといえるのではないだろうか。その中で、人は、一般 社会に形成されてきた認識の地平に踏みとどまりながらも、その地平の裂け目から吹いてくる、外の風の気配を感じ取らずにはいられないのだろう。

小澤慶介 麹町画廊